2008/09/28

たまに読みたくなる本

忘れかけた頃に、ほ、と読み返したくなる本がある。

忘れてなくても、何度か読みたくなる本がある。

最近そんなで読み返したのが、ヘッセの「デミアン」。
中学の頃に読んだきり。
で、憶えてない。

で、読み返して、こんなん中学の時に読んでて理解してたんか?って。
たぶん理解できてなかったと思う。


さっき皿洗いをしてたら、ふと、こんなセリフがよぎった。

「かかってこい、グモルク」

そう、これは映画ネバー・エンディング・ストーリーのアトレイユのセリフ。(なつかしー)

で、こらまたかなり久々に「はてしない物語」が読みたくなった。

1作目の映画のアトレイユは、凛とした女性のような佇まいをした美しい少年。
ホント、美しかった。


常に手元に置いておきたいほど、気に入ったのが、またまたヘッセです。
「知と愛」。

読んでそんなに時間は経ってないのに、内容もきちんと憶えてるのに、でも、読みたい。
非常に自分の深いところから揺さ振られた、自分と、ある人に重なる部分の多々ある作品。


いま読んでいるのは、「停電の夜に」。
ラストがさらりと流れるようなのに、ぐっととどまって、哀しい。
で、美しい。

|

2008/04/06

ヘッセを読む

「シッダールタ」をきっかけに、ヘッセを読み返している。

「クヌルプ」を読み、最近、かねてから興味のあった「知と愛」を。

そして、中学の頃に読んだ「車輪の下」を先日読み直し。
ありゃー、細部はほとんど忘れてた。

おそらくこれも忘れてるだろう。
「デミアン」
これも「車輪の下」と同じ頃に読んだものだ。
次は、これを読む。

中学の頃も、ヘッセが好きだった。
ヘッセを読む多くの人が感じる、
「あ、自分もそうだ。こんなだ」
という共感する点が、あちこちに散りばめられている。
それが、あの頃の自分をとらえた。

いまは、そこだけではない。
10代特有の不安であるとか世間に対する疑問や憤り。
を含め、それを越え(まだ越えきってはいないけど)、
ヘッセと向き合っている。

ヘッセファンには申し訳ないけど、ヘッセの書くものはみんなとても似通っている。
舞台となる土地の風景、主人公の性格。
とりまく時代。
ストーリーの流れ。

でも、それでいいのだ。
なぜなら、小説の中にいるのはヘッセその人自身であるから。

それらのなかには、相反する人物が登場する。
互いに性格や考え方の全く異なる人物。
その両方が、ときにヘッセであり、ときに片方がヘッセの慕う人物像であったりする。

二人を対照させながら、補完しあい、ヘッセは自分の思想を語っていく。

ヘッセの描く人物は、繊細で、つねに自己の内面を見つめている。
と同時に、自分の外の世界からも、目はそらさない。
ゆえに、傷つき、見失い、迷う。

ヘッセを読めば読むほど、自分にとても近しい人の姿が思い浮かぶ。
かつては、ヘッセの書く世界の中に自分自身をみていたが、いまは少し違う。

主人公の苦しみは、かつての自分の苦しみでもあったけど、いまはそこから少し離れた場所にいるような気がする。
逆に、自分と近しい人は、その苦しみにぶつかったり、折り合いをつけたりしながら生きている。

生き方に「これ正解!」、というものはないけど、その人の生き方はわかる。

だからだろうか。
ヘッセを読むたびに、より、その相手をみる眼と心は深くなり、自分が磨かれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/06

本で読む、『かもめ食堂』

先日、映画『めがね』をみた。

もちろん、『かもめ』つながりである。
同じ監督、スタッフで作られた映画ということで。

どうだろう、自分はイマイチである。

あの、南の島=脱日常 みたいなオハコすぎるつくりが、しっくりこなかった要因。
人はなぜ、くたびれると南の島であるとか、海へ向うのであろう。

自分は、沖縄の竹富島に約1ヶ月間いたが、逆にくたびれに行ったようなものだ。

お金を貯め、仕事を辞め、旅の出発点として何の理由もなく沖縄を選び、お金を浪費しちゃいけないということで、予定もしてなかった「民宿で働く」ということをした。

確かに脱日常ではあったが、映画にあったような「たそがれ」は、正直、一度もなかった。
怒涛の民宿働き。
ハードだった。
過食がたたって、デブになったわ。
何しに沖縄行ったんだろ、自分。
いまだに謎。

さて、そんなで、自分は『めがね』よりも、『かもめ食堂』が好きなのである。

なんでフィンランドっていう、「なんで感」も自分の旅と似ていて、心地いいのだ。
好きが高じて、今回は本を読んでみている。

映画をみてから本を読むと、しっくりくる。
とあったが、結局まあ、そのとおりになった。

本を読むと、なぜ主人公サチエが、儲かってもいない食堂でやっていけてるのかが、わかる。

その背景と、サチエの性格も相まって、その仕事ぶりというか食堂に対する姿勢が実に潔く、気持がよい。

本はまだ途中までしか読んでいないので、ラストも映画のとおりなのか、それとも多少違うのか、わからない。
でも、どちらにしても、あの映画があっての本なので、本の内容はそんなに大きくない。
大きく自分に影響を与えるでなし、深く感動を得るでなし。

だけど、ああ読んでよかったな。
読んで面白いなっていうのはある。

しかし、映画のほうが、いい。
だから、またみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/11/23

ぞくぞく読みたい

べつに、怖い本をビクビクしながら読みたいわけじゃない。

そうか、平仮名だから、おかしなことになってるのか。

「続々、読みたい」

とな。
昨日の「よりみちパン!セ」のつづき。

1冊、読んだら、これもあれも読みたい・気になる、本がある。

『神様がくれた漢字たち』

普段、何気なく使ってる漢字。
パソコンでなんか字うってるから、書けないんじゃないか?漢字なんて。
でも、漢字の美しさ・生まれた経緯。
もっと知りたい。

『おばあちゃんが、ぼけた』

タイトルにやられました。
ステキすぎ。

『こどものためのドラッグ大全』

旅仲間があつまりゃ、絶対出るこの話題。
旅人は避けて通れない。
旅人なら、避けて通れないセオリー的なもの?
こども?
いやいや、おとなだって、わかってねえよ。
一緒に、学ぼう。

『ひとはみな、ハダカになる。』

書き手はAV監督です。
これは読まねば。
みんなで読みましょう。

『家を出る日のために』

いつかそうなるでしょう。
そうなる前に読んでおきたいと思う1冊であります。


家には、読み終えていない本がずんずん積まれてるわけでありまして、そこにこれらが更に追加されるのか・・・と思うと心苦しく・・・

は、ない。

ただ、あんた、買い物しすぎとちゃう?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/11/22

よりみちパン!セ

非常に面白い本を頂戴した。

理論社から出ている「よりみちパン!セ」だ。

そーいや、この本、夏にシリーズでうちの本屋にも入荷してた。
夏=課題図書=子供向け?
そう思って、気にはなっていたけど、気付いたら夏の終わりと一緒に返本されてた。

この本は、たくさんのシリーズがあって、どうやら次々刊行されているようだ。

今回、頂戴したのは「いのちの食べかた」という本だ。

毎日、我々が当たり前のように食している「お肉」。
それらはどこから来て、どこで「食べられる」お肉になって、お店に並んでいるのか。

この本は、タブーとされる「屠殺」の背景、歴史、差別、宗教まで掘り下げて、書かれている。

いま、自分は「とさつ」と入れて、変換しても、上の「屠殺」が出てこないことに驚いた。
一般の、日常の、普通に使う日本語では、「屠殺」という言葉は、普通ではないのかもしれない。

なんか悲しい。
だって、我々の口にするお肉は、屠殺という行為を経て来ているのに、なんで?

この本を書かれた森達也さんも、おそらく同じような気持があると思う。
読んでて、納得する部分、多々あり。

自分は、日常の会話の中で「ほふる」という言葉を使ったことがある。
そこにいた人は、なんのこといってるの?って顔をしてたな。そういえば。

「ほふる」ってなんだか、わかる?

漢字にすると、「屠る」。
さっき、出てきた漢字と同じ。

「動物を食べるために、そのいのちを頂く、殺す行為」

これは、自分で、こう解釈してる。
辞書をひらいて、いま、書いたわけじゃない。
だから、辞書とは解釈が違うかもしれない。

先に「屠殺」はタブーと書いたが、自分にとっては、タブーでもないし、未知でもない。

この本を下さった人からは、「あら、アズヲさん、よく知ってるのね」といわれた。
たぶん、タブーと感じていないから、自然と知っているのだと思う。
無理して植えつけた知識じゃない。

トルコにいたとき、朝食のパンを買いにフラフラ~と出かけたとき、いつもの通りに血がだくだくと流れていた。
朝から、ショッキングな現場である。
おそらく、その場に首を切られたヤギがいたのだろうか。
どうであろうか。(記憶あいまい)
とにかく、何の説明がなくとも、取り立ててびびることなく、その場を通り過ぎて、パンを抱えて帰ったのを憶えている。

自分が「屠る」という行為を知っているからだ。
ヤギは屠られたのだ。

トルコでは祝日や祭事に、ヤギや羊を屠る。
日常の場で、そういう行為が自然と行われている。
特別に隔離された場所で、こっそりやる行為ではないのだ。

自分は、それが好ましいと思った。
とても普通だと思った。

この本を読んで、感じたことはたくさんあった。
お肉のことだけじゃなくて、人間のこと。生きること。

この本の(シリーズの)、あり方にも感じることは、いっぱいあった。

いい本に出合えた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/10/31

読み進まん

図書館で借りてきた本が、ここ2連発で面白くない。
というわけで、ちっとも読み進まんとです。

途中で返すのは、なんか悔しいので、頑張って読むのだが、果たして頑張って読まなければならないのか。

いま、読んでいるのはヘッセの「愛」に関するエッセイ。

なんで、こんなにつまらないんだろう。

以前、読んだ「シッダールタ」は、非常に好んだ。
だからこそ、読んでみたくなったのに。

たぶん、自分は人様の色恋沙汰には興味ないんだろう。
読めど読めど、「ふ~ん」っていう感想しかない。
正直、だから、なんなんだろって。

返却日は迫る。
あと、2日。

おそらく、読み終わらない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/25

アイスエイジ

おそらく、この漫画大国、ニッポンにおいて、アズヲ氏の漫画消費量は、抜群に低いと思われる。

なんていっても、読むには読むが、だいたいが動物が主人公のものだったり、ストーリーのあるようなないような、ギャグ漫画だったりするのだが。

高校の頃、周りはマーガレットなんぞに載ってるような少女コミックに夢中になり、まわし読みをしてた頃、自分は、

「いま、非常にはまっている」

という、ハムスター観察日記の漫画を持っていった。
ある友人の一言。

「あっちゃん、高校生だよ」

ちなみにいまも気に入っていて、本屋で、お客さん(小学生の女の子)から、この本のことを訊かれたとき、ものすごい勢いで説明した。
で、在庫はなかった。

そんな自分が、先日、「普通」と思われる漫画を手にした。
「アイスエイジ」という漫画だ。

休憩室に、試し読みコミックという物が大量に置いてあったときがあり、暇つぶしに読んでいた。
そのうちの1冊なのだ。
まあ、試し読みということで、1巻の1話目しか載っていないので、興味のもてんもんには、全く興味なんてわかない。

「アイスエイジ」は、学園もんだ。
通常、この時点で、アズヲ氏は動かない。

この漫画の主人公は、元フリージャーナリストの臨時雇用の英語教師。
戦地、紛争地を転々として来た、という奴が主人公。
そんな主人公の眼に映る、生気のない目をした日本の高校生に、びびる。
というところから始まる。

なんかこう、もっと胡散臭く熱血~みたいな展開になるのかと思いきや、ならん。
主人公エイジの持論で、物語が進んでいくのだが、それが説教臭くなくて自然。
命ギリギリの地で、生きること死ぬことを見てきてるからこそ、旅して、「生きるってねえ」って感じたことのある自分のような類の人間には、わかりやすいのだ。

物語は、そんな感じなのだが、漫画ですからね。
主人公はじめ、主要キャラは、みんな美男子に描かれております。
今はやりの「メガネ男子」ですか?(今頃いってては、遅いか・・・)これも、おります。

主人公エイジ、エイジのいとこ比呂志、数学教師の光倉。
まんま、ボーイズラブ系に移行しても、全然おかしくないでしょうな仕上がりです。

うちの本屋では、ボーイズラブ系の漫画だ小説だが、よう売れるんで、これもどでしょ。
と思うのだが、内容が硬派だからなあ。

あと、オイラの気に入ったところは、恋愛話しにならないとこだ。
キレイどころが、ごろごろ集ってる漫画のくせに、そちらの発展は1巻の時点ではない。
伏線はあるんだけどね。
あからさまに、恋恋は、おもろくないんだよねえ。

しかし、困ったことに、もう8巻まで出ているのだ。
いま、手元にあるのは1巻だけ。
この先、続きをちゃんと買えるのかしら。
ボヤボヤしてるうちに、更に巻が増えてしまうかもしれない。
そしたら、もっと買えない状況になってしまうでないか。
漫画というものを買い慣れない自分にとって、漫画大人買いは、非常に難しいのだ。

いつ、続きを読めるんだろか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/04

新風舎事件

今、新風舎が大変なことになってるんだね。
遅いか、自分。
今さら、いってるようでは。

そんな自分も、新風舎から本を出したのだ。

今回の問題となった訴訟は、「自分の出した本が店に並んでいない。のどうのこうの」というもののようだが(もっと深い問題があったら大変申し訳ない)、

そもそも、よほどの売れ筋作家の本でない限り、本屋に積めるほどの量は入荷してこないんだ。
つまり、本を出せば、どこの本屋にでも、自分の本が並ぶかといったら、否!なのだ。

自分は、本屋に勤めてる。
だから、わかる。

お、いいなあ、この本!
と思っても、1冊しか入荷しない本なんてたくさんある。
それは、大手の出版社から発行されていてもだ。

さて、自分の出した本はどうなったかというと

まず、本屋勤めの特権(?)ということで、自分の働く本屋では大量にならべていただいた。
そして、思った以上に売れた。
自分の本を自分で売るというのは、非常に嬉しかった。

あと、小さく営業もした。
おかげで、今もその本屋さんとは、お付き合いがある。
ありがたい。

なんか、一方的に新風舎がたたかれているけど、新風舎もそれなりに頑張って(?)営業してくれたかいあって、ワタクシの地元、横浜の本屋には、それなりに並んでいたようで

「あっちゃんの本、ならんでたー!」

と、友人からの報告があったとき、やはり、嬉しかったものだ。
東京の大手の本屋にも入荷していたようだが、地元にあるのはホントに嬉しいのだ。

でも、本というのは出版されれば、ずっと本屋にあるのかというと、実際はそうではない。

常に新しい本が出版され、入荷してくる。
よほどの売れ筋本でない限り、常駐することはまずありえない。

本屋で働く身としては、全ての本が素晴らしく、全ての本をならべておきたい。
と思っても、現実は、敷地面積があり、売り上げあり、売れないものは単なる在庫になってしまうので、返品しなければならないのだ。

「本」というと、本を出版することに、かたちにすること・なることに執着してしまう人が多いような気がするけれど、果たしてどうなんだろう。

私が思うに、本というかたち、物体そのものよりも、その中身なんじゃないかと思うのだ。

確かに美しく装丁されたオシャレな本もあって、かたちとしては魅力的だ。
あ~、自分もこんな本出してみた~いって思う人。いないわけがない。

でも、中身なのだ。
その中身。

文字にして文章にして、印刷して。
そこまでして、訴えたいことってなに。
と、私は思うのだ。

私の本の中身は、旅で描いたスケッチだ。
私は絵を描く。
ものを作る。

そう考えたとき、自分の表現したい「何か」は、本ではなくてもいいな、と思った。
本に執着するのでなく、もっと違う空間でやろう。

そして、それが今にいたる。

で、今では、その本は、高い名刺のようなものになった。
自分を知ってもらう、ひとつのツールだ。
ガクブチ展と一緒に、ならべておく。

確かに自費だろうが、共同だろうが、出版というものにはお金がかかる。
けれど、出したことに悔いはない。

本屋に勤めていると、本の流れというものがあることがわかる。
本なら出せばいい。
出せば売れるだろう。
そんなこた、ない。

でも、売れる売れないにしても、ある一冊が、誰かを楽しませ、喜ばせる一冊になる可能性はある。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/07/15

読後、シッダールタ

仏陀のことは、ある映画からみただけの知識しかない。
『リトル・ブッダ』という映画だ。

そこで、仏陀は、シッダールタ王子だった。
ということを知っている程度だ。

こんな人間が、この本を読んで、はて、わかるんだろかと思った。

読みすすめるうちに、これはわかる・わからないでなしに、ヘッセの描く「悟り」の物語なんだなということに気付く。
ヘッセは、相当にインド思想・仏教を学ばれている。研究されている。
それは、生半可なものじゃないな、と読んでるとゾクゾクするくらい伝わってくる。

ヘッセは、シッダールタという人物をお借りして、ヘッセの考える「悟り」を、彼にかぶせていく。

良いも悪いも区別することなく、そのもの存在として認めること。
「言葉」ではなく、その者そのものの、ありよう。
姿・かたち・表情・立ち振る舞い・声
その姿から、光おびるような。

言葉・思想・教義を越えて、そのもの自体に、力が。

言葉も時として力になるが、時として無力で陳腐だ。
逆に、そのものの姿というものには、嘘は嘘としてあらわれ、真は真としてあらわれる。
それは言葉より、如実で、圧倒する。

シッダールタを読み終え、いま、クヌルプを読み始めている。
まだ、半分ぐらいしか読んでいないが、クヌルプは確かに魅力的な人物であることはわかる。
でも、自分は、シッダールタの世界観が好きだ。

芳醇で濃厚な世界なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/11

猫が、好きだ。

Book25

猫の雑誌を買うのは初めてだ。
猫は大好きだが、んな、雑誌を買うほどじゃないだろと思っていた。

しかし、気付くと、この本の前にいるのだ。
ペットの本のコーナーはレジから一番遠い場所にあるので、頻繁に行くことはできない。

でも、気付くといるのだ。
商品整理でもなんでもなく、普通に客と並んで立ち読みをする店員。

この雑誌は「ひら」で置いてあるのだが、必ず、決まって、その上にチワワの雑誌がきれいにのせられていることがあった。
チワワ読んで、パッとそこに置いて帰った。
というふうではないのだ。
明らかに、きちっとこの、にゃんこを隠すようにして「チワワの本買いなさい」とでもいうかのように、置かれているのだ。

偶然かなと思って、なおした。

で、しばらくすると、またおんなじように、チワワがのっている。
これは、偶然ではない。

誰かが明らかに、チワワをすすめている。
これは負けられんぞ。
と攻防戦が続く。

そして、勝ったのだ。
私は勝った!(っちゅうか、チワワ好きの客が飽きたんだと思う)

それからも、しばらくこの雑誌の前を巡回。
で、立ち読む。

で、気付いた。
仕事にならんな。

そして、ようやく買った。

さて、猫はかわいい。
昔は、仔猫であるとか純粋にかわいい子が好きだったが、歳をとると嗜好も変わるのであろう。

最近の好みは、ぶっさいこである。
半眼だったり、口が半開きだったり、ケツがドアの隙間にひっかかってたりする子に非常に心ゆすぶられる。

たまに、我が家にも野良猫が来る。
全く会話が成立せず、かなりぶっさいなので、気に入っている。

ぶっちゃーは(ぶっさいので、ぶっちゃーと呼ぶことにしよう。今、決めた)、私には関心がないが、わが愛車には関心があるようで、よくのぼっている。

いつかは猫と暮らしたい。
夢である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/06/28

シッダールタ

本屋にて。

お客さんの注文した本が届くと電話をする。

べつにどうだっていい本もある。
まあ、お客さんにとっては欲しい本なのだから、そんなこと言っちゃあ、いけない。

でも、たまに、あら、いいのたのんでるじゃない。
という本に出くわすことがある。

自分は知らなくて、だけど、お客さんが注文したことで知る。
こんな本もあるのか。

先日もそんな本があって、しげしげと眺めた。
注文された本は、ビニールの袋に入れて保管するので、売るとき以外はあえて出さない。
まあ、出してもいいんだが(袋に入れる作業は店員がするので)、なんか悪い気がする。
お客さんがたのんだ本だからなー。
おいらのじゃないし。
てなわけで。

それは、ヘッセの『シッダールタ』という本である。
ヘッセといえば、車輪の下である。
もうひとつ読んだぞ。

デミアン

ちなみにこっちは、すっかりどんなお話か忘れてしまったが。
中学の頃読んだのかな。
あの頃は、今よりいっぱい読んだ。

なんか結びつかなかったのである。
ん?ヘッセが仏教のことを?
東洋思想の本なの?

わからんなあ。
だからこそ、興味深かった。

で、早速おいらも自分の分、注文してみた。
お客さんの真似っこ。


そーいや、最近とんとブログ書かないね。
さっき、一ヶ月以上前に届いてたメールにようやく返事を書いた。
おいおい、大丈夫かいな。
パソコン自体あまりあけてない。

べつに具合悪くて臥せってるわけじゃない。
もりもり元気。
最近、単なる食いすぎで、ちとデブになった。

そう、地味にガクブチ作ってるのよ。
7月になったら、DMの準備しなきゃあいかんし。
モタモタしてる場合じゃないよ。
デブになってる場合じゃないよ。

今回のDMは写真にしようかと思ってる。
今作ってるガクブチのどれかと、一緒に展示するガラス作家さんのグラスと。

テーマは・・・・・・・特になし。
庭にならべて撮る。

9月に展示なので、夏っぽくするかな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/06/04

廃墟本

読んでもいない本がたまってるのに、新たな本が次々と欲しくなる。
困ったものである。

本屋に勤めながら、近所の本屋にも出かけ、東京に行った際にも本屋は何軒か必ずはしご。
こりゃー、相当の本好きかーっと思われるかもしらんが、全くそんなことはない。

新刊、話題の本には、とんと興味がない。
毎日、必ず本を読む。
そんなこと、今まで一度もない。

ただ、なんだろう。
本、そのものが好きなんだ。
本がいっぱい並んでるのが好きだったり、あちこちパラパラ眺めてるのが好きで、それを読んでワタクシは!!
という特別な何かはない。

本屋で働いてるんだー。
へー、好きな作家さんはー?

芥川龍之介と江戸川乱歩。

なんか、ピントずれてねえか。
こう、もうちょっと、今の時代の空気を感じさせるというか、なんというか。
そういう、セレクトはないんですかねえ。

ない。

というか、今の作家さん、ほとんど読まんから、知らん。(これで本屋勤め)

芥川は、あの神経質なトコがたまらん。

芥川の最期。
奥さんの

「お父さん、死んでくれてありがとう」

という一言。
最高です。

江戸川乱歩は、あのエロ・グロ・ナンセンスがたまりません。

さてさて、そんな話しさておき、またも欲しい本を見つけてしまった。

『戦争廃墟』

先日、たまたま出かけた近所の本屋に、流行の廃墟写真集のコーナーがあり、ならんでいた。

廃墟写真というよりも、廃墟そのものが好きだ。

廃墟を見つけたときの感動。
その廃墟に近寄っていく胸の高鳴り。(ちょっと怖いのだ)
廃墟にタッチ。
廃墟に侵入。
足場が悪くて転んだり、蜘蛛の巣にひっかかったりの、ちょっとアクシデント。
水っぽさ。
薄暗さ。
意味不明さ。

そこから出たときの、呆け感。
なんだったんだろ、あそこは。
みたいな。

子供の頃、住んでいた場所は、ワケのわからんものに取り囲まれていて、それはそれは怖くて楽しかった。
社宅の土手からは、普通に蛇が出てきた。
出るという噂の「お化けトンネル」。
出てもおかしくないくらい、ちゃんとリアルだった。
草地ぼうぼう、荒地ぼうぼうの国大グラウンドは、格好の遊び場で、洞穴あり、どこからきたのか廃車が転がってたりなんぞして、非常にワイルドだった。

普通に整った公園で遊ぶより、ここでは遊ばんだろうというトコに、ちびっこアズヲは潜んでいた。

そう、ちびっこの頃から、廃墟的なものとともに遊んでいたのです。
大人になって急に興味を持ったわけじゃあない。

今住んでる場所の近くには、そんな廃墟遊びができそうなトコがなくて、ちと寂しい。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007/03/06

ひさびさにMOE

Book24

定期的に買う雑誌というのは自分にはない。
好みの雑誌というのはある。

この「MOE」も、そんなうちの1冊だ。
雑誌の抜き取りをしてるとき、その表紙の青に惹かれて、ひょいっと抜いたら、おお~、リサとガスパールじゃないですか。

なか見たい、と思ったらなぜか紐がかってやがる。
なんでだろと思ったら、シールのおまけがついているからだ。

たんなるおまけのシールだっていうのに、わざわざ紐がけするのか?
って思われるかもしれない。

が、これが侮れないんです。
うちの本屋では、おまけがしょっちゅう紛失するんです。
なんでこんなもんって思うようなもんまで、わざわざパクっていくんです。
情けないよなぁ~。
本そのものはパクれないくせに、オマケならパクるのかよ。

以前、やはり、MOEでしたね。
おでんくんの特集のときに、おまけにシールがついてたんです。
これが苦情になったんです。

返品の受け取りをしたのは、たまたま私でした。
お客さんに謝って、中を見てみると
あちゃー。
おまけのシールがぺたぺたおでんくんのページに貼られまくっているではないか。

なんで、こんなことするんやろ。
MOEは、総合誌&趣味のコーナーに置いてあるので、児童書からは離れている。
ってことは、大人がやったんか?
ありえねえ~。

とまあ、そんなわけで紐がかっていた今月号のMOE
あけてみると、色鮮やかなリサとガスパールの世界がひろがってました。
作者のアンとゲオルグのインタビューと、お二人のツーショットがステキで、ほや~っと眺めてました。

他のページをパラパラめくっていると、ありゃま。

恵さんという猫が。
18歳。
セーター着て、ちんまりしてる。
よくわからんけど、かわいいのお。

さらに、パラパラしてると、おっ、今度『ガクブチ展』をひらかせていただく喫茶店が出ているではないか。
はい、購入~。

ちなみに、自分が休憩の間にMOEは次々と売れ、帰る頃には残り1冊になってた。
恵さん効果?
いやいや違うだろ、リサとガスパールだろ。

でも、恵さん、いい味だしてたなあ~。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/12/01

広島に原爆を落とす日

という本があって、私はこの話しの最後が知りたい。

旅中に、途中まで読んでそれきりなのだ。
ユーゴかブルガリアか、どちらかにいるとき、たまたま部屋に置いてあったのか、誰かが持っていたのか、忘れてしまったが。

でも、途中までしか読めなかったということは、持ち出せなかった本だったんだと思う。
だから、たぶん急いで読んでいたんだと思う。
内容に鮮明な記憶はなくて、ただ、もやもやする。

あの本は、どうなるんだろう。
たまに、思い出す。
で、すぐ、そのことを忘れる。

タイトルからしてわかるとおり、第二次世界大戦中の話である。
主人公は男性だった。
でも、その者の記憶はあまりない。

黒髪の女性が出てくる。
どんな女性かは忘れたが、(忘れ放題だね、こりゃ)彼女は極秘にドイツへ贈られる。
「送る」ではなく、「贈る」としたのは、日本からドイツへ贈る最重要品だった。
ような気がするのだ。
この彼女が外に出て、彼女を運ぶという使命だけで敵のレーダーがウヨウヨしてる中を慎重にかいくぐってきた日本の潜水艦が、さて戻りましょうかとしばらく進んだとたん爆破。

確か、こんなトコでとまってしまったような気がするのだ。

え、彼女、これから、どうすんの?
なんで、彼女がそんなに重要なの?
わかんないよ。

最近になって、この本のことがやたら気になるようになった。
買うまでもないな、と思って近所の図書館の蔵書を調べてみる。

ない。

じゃあ、本屋のサイト。

ない。

っちゅうか、もう、絶版じゃないのか?これって。
取り寄せ不可じゃん。

アマゾンでも、古本扱い。

ありゃー。
日本に帰れば、普通に読めるから途中でもいいやーなんて思ってたけど、ダメなんじゃん。
寝ないで読破しときゃよかった。

おそらく、ラストはタイトルの通りなんだろうけど、それはわかってる。
だからこそ、そこに辿り着くまでが気になるじゃないか。
ちくしょー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/25

ブラッカムの爆撃機

Book23久々に丁寧に書かれたものを読んだなという気がする。
イギリスの児童文学である。
で、爆撃機である。
素晴らしいな、と思った。

爆撃機は人を殺すものである。
ときは、第二次世界大戦である。
物語はリアルに進んでいく。
美化されない、死がある。
生々しくて、恐ろしい死だ。

でも、読後感は悪くない。
むしろ、晴れ晴れとしている。

児童文学には、夢を与える部分と真実を伝える部分がある。
夢だけでは、子供は育たない。
真実だけでは、子供は失望するかもしれない。
ウェストールの作品には、その両方がうまく共存している。
酷な現実が描写されているからこそ、希望がある。

闇の中に、ぽちっと光がある。
それは物語の中だけでなく、普通の人生においてもそうかもしれない。
光に満ち溢れた空間にいることはまれで、あとは闇の中で手探りなのだ。

素晴らしいと心をとらわれる児童文学には、必ずこんな闇がある。
闇の中から、自分の手で掴み取った小さな光は消えることがない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/10/11

ひな菊の人生

Book22

人様のブログを読んで、惹かれた本に出合うのは2度目である。

『インド夜想曲』と、この『ひな菊の人生』。

どちらにもいえることは、どちらも迷いがないということ。
欲しかったのである。
そんな衝動みたいなものは、本に向う姿にもあらわれる。

もくもくと読んだ。
深夜、薄暗い部屋で、もくもくと。
しばらく読み進めては、奈良さんの描く絵を眺める。
深い森に引き込まれるような気持ちになる。
不思議な相乗効果だ。

主人公、ひな菊の住んでいる家の裏には林がある。
自分のあたまに現れる木々の在りようは、森で、林というより、もっと濃いものが現れていた。

そこを走り抜けてくる、ひな菊の友ダリアの姿は、ぷりっぷりと躍動感に充ち、光をまとってるように感じられた。
ダリアが「生」に感じられた。
ひな菊の身近にある「死」の存在が、ときにその「生」に覆われ、ときに顕わになる。
ダリアは、光であり影である。

吉本ばななさんの作品を読むのは、これがはじめてである。
少ない簡潔な言葉で、芯をつかむ描写。
現れる映像にブレがない。

雨と土のにおい、人肌に沁み込んだ香水の香り、やきそばの湯気。
そんな眼に見えないものまでが、くっきりと輪郭をもつ。
自分の幼い頃の記憶も、次々とあらわれた。

自分にとってのダリアの存在を感じながら、ひな菊がとても愛しく思えた。


笛を吹いたら、やって来るだろうか。
ダリアみたいに。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006/06/29

異国の客

Book21本屋に勤めてて、なにが哀しいかな。
自分の欲しい本がない。
今、手元にある本のほとんどは、注文、あるいは東京に出かけたついでに買ったものばかりで、自分の働いている本屋で買ったものは皮肉なほど、わずかなのだ。

この本もそう。
池澤夏樹氏の本を読んでみたい。
探してみたものの、1冊もない!
なんじゃ、この本屋はーっ!!

じゃあ、自分で勝手に発注しちゃえばいいじゃんってお思いになるかもしれない。
でも、それぞれに担当があって、そのテリトリーは侵せない。
うんぬん以前に、全国展開の本屋なもんで、本社がテキトーにフェアだとかいってボンボン本を発注してる。
この売り場面積に、こんなにかよ!?
逆に、これしかねえのかよ!?
そのどっちか。
担当さんも泣けてくるね。

ちなみに、自分には担当はない。
担当を持つのは、基本的には早番の人で、自分は遅番だ。
でも、最初は遅番でも、しばらくすると、早番に引き抜かれて担当を持たされるのがこの店の慣わしだ。
数年前、自分にも当然だが

「朝、行け。おまえは、朝行け」

といわれた。
しかし、

「やだ、朝、やだ」

いい続けた。

なぜなら、担当を持たされてしまったら、連続で休むことは難しい。
それに、朝から夕方まで仕事じゃ、ガクブチ作る時間ないじゃん。
そう、ガクブチは仕事前の時間に、わっせわっせ作ってるんですよ。

で、この店に来たときから今にいたるまで、自分は異例の遅番居続け人となったわけ。
担当がないかわり、自分の仕事はもっぱら新人の教育だ。
マニュアルがない店で、人を育てる。
自分の育て方は、最初厳しく、あとテキトー。
え?テキトーなの?
なんていうんだろう、あとは臨機応変、自分で考えて自分で動けってことなんですよ。
1から100まで、きっちり教え込んで、さて、その人材が優秀な働きをするかっていうと疑問。
だから、きっちり枠にはめ込むより

「場の空気みて動けや」

なわけである。
でも、これが案外難しくてね。
でも、やっぱり、欲しいのは、そういう人なのである。
賢くて頭でっかちで融通のきかないヤツは、つかえん。
ホント、つかえん。

さて、そんな本屋の話しじゃなくて、本の話し。
池澤氏の本が読みたい。
そう思って検索したら、出てくる出てくる。
とめどない。
どれ、読みゃーいいんだよ。
小説より、まず、その池澤夏樹という人物にえらく興味をいだいたので、エッセーのようなものを探した。
この方は、なにを考え、なにを書いているんだろう。
それを、まず知りたかった。

最近のものにしよう。

・・・・・・・・。

装丁が気に入ったから、これにしてみるか。
実に消極的な選び方。
だって、いっぱいあって、わかんないんだもん。

池澤氏は、どうやらあちこちで暮らす人のようだ。
短期間の旅では、みえてこないものは多い。
季節一巡、それでようやくその地、その場の空気を感じられる、ようだ。
それは納得。
短期間の旅では体験すること、眼に飛び込んでくるもの、得るもの、失うもの、そんな全てのコントラストが強すぎる。
「暮らす」というのは、もっとゆるやかなものだ。
だからこそ、そこから得られる洞察力は、短期間の「わーっ」より深くなる。
日常の些細な出来事に、心が動く。

この本の帯に

『フランス暮らし。
日々の発見と
思索のクロニクル。』

とある。
よくある、写真とイラストに彩られたフランス・ガイドではない。
暮らすように旅したい!
なんて、そんな類でもない。
そもそも、「暮らすように旅したい」っていうのは、ただのパック・ツアーからの脱却だろ。
せこせこしたツアーはいや!のんびり優雅に旅したい。
そんなのが「暮らすように旅したい」の背景にあると思う。
でも、結局は「~ように」なのだ。
戯事に過ぎねえ。

自分もトルコに暮らしてみたいと思った。
半年ねばった。
春・夏。
ふたつの季節が巡った。
秋の訪れを感じる頃、日本に帰った。
季節は一巡しなかった。
やはり自分も「~ように」しかできなかった。

池澤氏は、いまもなおフランスで暮らしているのだろうか。
おそらく、そんな気はする。
彼はフランスから日本という国をよくみている。
それで日本と何かを比較するのではない。
しかし、日本という国が向っている先に警鐘を鳴らしているのは確かだ。

憂うことなく、怯むことなく、諦めることなく。
私たちの国をみている。
その眼差しの強さに、私は惹かれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/12

自分の仕事をつくる

Book20先を見失った人がいて、その人に「道はひとつじゃない」といったことがある。

「これをしてれば、○○になれますか?」

「こんなことをしていて将来につながりますか?」

そんなことを大学の教授に質問する大学生の話が、たまたまこの本にも書いてあったが、その人も正にそんなだった。

それなら、何をすれば確たる将来というものにつながるというんだ?
逆にこっちが聞きたいもんだ。

人は学生を終えると仕事をする。
当たり前だが、それが揺らいでいるのが今の時代であるといえる。

自分が何をしたいのか見い出せない。
ただなんとなく学歴を重ねても、見えないものは見えない。
大学に行けば何か見つかるかな?
仕事すれば何か見つかるかな?
あまりに人任せである。
結果、大学を卒業して職についても、将来が見えてこない。

上の2つの質問に集約された思いだ。
好きなことをやっていたい。
しかし、そんなことやっていていいのか?
保障がないじゃないか。
そんな好き勝手じゃ。
なら、とりあえず仕事しとくか。

こんな仕事、こんな生き方が楽しいわけがない。

でも、私たちの育った環境、たとえば学校での学び方は、答えはひとつしかなかった。

4+6=□

□に入る答えは、ひとつしかなかった。
そう考えると、あんな質問を投げかけてしまう気持ちもわからないでもないのだ。

今、自分にとってのガクブチ。
ハッキリいって、がむしゃらである。
もう、やるしかないと思っている。
妥協点は一切ない。
ひたすら、ガツガツ作っている。
もちろん楽しい。
でも、「楽しい」。その思いだけでは成っていない。

しかし、不安や疑問っていうような自分を後ろにひっぱる思いじゃない。
自分にはいつも「怒り」が渦巻いていて、それは、自分を自然と前へ押しあげてくれる。

4+6=□

は、これからの未来を生きる子供たちの無限の力を、封じ込めてしまった結果なのかもしれない。
そんなことに怒りを感じるのだ。
だからって、萎えてたってしょーがない。
そういう中で育ってしまったんだから、過去を取り戻すことも塗り替えることもできない。
また、これらに抗う人たちに対して、孤立化を強いる世間にも怒り。

「成功しなければ負け犬」

「考えが深くなれば、ひきこもり」

だから、自分はやり続けるしかないと思っている。
理由じゃない、評価じゃない。
やり続けた結果、そこから見えること。
それしかないと思っている。
だから、絶対あきらめちゃダメなんだと。

去年、入れ墨をいれたこと。
それは、あきらめてラクな道に戻らないように、あえて入れた。
大変でも、このままいこう。
その決意と願いのために。

「自分の仕事をつくる」とは

自ら、自分の生き方を自分で作ることだ。

既存の会社(社会)の中で生きていては、生かされてるに過ぎない。
それに気付いた人たちが、生きて仕事をする。
それらをまとめたこの本の中には、自分が日常の中で人に向かっていう言葉が時折り現れる。
人に投げかける言葉っていうのは、当然だが自分に向ってかえってくる。
だから、考えはどんどん深くなる。
内へ内へ・・・・
じゃー、ひきこもりかーっ!
っていうと、そうではない。
ちっとも、ひきこもらない。
むしろ、表にべろんと出ている。

考えても考えても、それを呑み込むだけじゃない。

まず、動いてみる。
必ず、変な方向に行く。

試してみる。
うまくいった試しはない。

お金も時間も無駄に流れる。
ホントに浪費しまくった。
なのに、どれも、うまくかたちにまとまらない。

なんでなんだろうって考えてみたりもする。
でも、考えてるだけじゃ結局はくたびれるから、また動き出す。

こんなのの積み重ねである。
そして、後悔はない。
あとは、先にもいったように、もうやるしかない。

だって、道はひとつじゃないからね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ちいさなちいさな王様

Book19ゾーヴァの描く絵が好きで、彼の挿絵の本を何冊か読んでいる。
そのなかでも、ここに描かれている夜の空は美しくて、とても心地よい。
月が出ているわけでもないのに、明るい夜の空というのはあって、なんとなく奇妙なんだが、しっくりくる。

深夜に何を思うでなし、ただひたすら考えることはよくある。
先日も、完成間近のガクブチから少し離れたところに腰掛けて、やはり、ただひたすら何か考えていた。
別にガクブチのことではない。
ここから、どうしようか、そんなことも多少頭の中では考えているのだが、深夜にボワーっと考えていることというのは、頭で考えてることなんてわずかなような気がする。
身体というか、皮膚全体で感じる何かを、受けとめたり排出したりするなかで、時間が過ぎていく。

そんな時間の過ごし方をする人間にとっては、この物語は近い。
ファンタジーでもメルヘンでもない。
ただ、ちいさい王様がいるのだ。
一緒に遊んだり、話したりする。
王様は我がままで、結構かわいい。
そして王様は日増しに、どんどん小さくなっていく。
でも、小さくはなるけど消失することはない。
目で見ることが出来なくなるだけだ。

それは人間の魂みたいだ。
人は死ぬのは、外身の身体だけで、その中身は生き続けて、器をかえるだけだって。

想いを繋ぐとでもいうのだろうか、誰からも教わった聞いた憶えもないのに、何故か本能的に起こす行動は過去から受け継いだものなのかもしれない。
旅もそんなような気がする。
ひっぱられる場所っていうのは確かにあって、それは本人が知らないだけで、そこにはかつての自分と関係があるのかもしれない。

自分が今ここに居るというのは、決して「ひとつ」の何かだけでは成り立ってはいないと思う。
たくさんの何かが連鎖的に複雑に絡み合った結果なのかもしれない。
自分にたくさんの面があると感じる人は、きっとその絡まりも尋常じゃないのかもしれない。
たくさんの過去、たくさんの誰か、たくさんの地、たくさんの何かを、その身に託されて今に生きているのかもしれない。

ここに居て、ここだけをみていない。
じゃあ、何をみているんだろう。
自分の奥にある深い深いところまでおりていって、それを突き抜けた先にある何か。

そう、突き抜けなきゃダメなんだ。
たぶん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/29

ヨーロッパを旅してしまった猫のはなし

Book18もし、仮にそうだったら面白いな、そんな空想のお話し。
あるいは旅のエッセー。
はたまた、猫と一緒の旅の小説。

かと思いきや、そうじゃないんですね、これが。
ちゃんとした、猫を連れて海外を旅するためのマニュアル本になってるんですね。
人間に対して、人間が、あーだこーだ旅した旅の本は腐るほどあって、この手の本は好きではない。(なんてね、自分も書いてしまったがな)
食傷気味である。
もう、充分である。

そんなときに、たまたま、この本を見つけた。
中を見ることが出来なかったので(ネットで購入)、見づらい小さな画像と、宣伝文句で買ってしまった。

「猫好き、旅好き・・・うんちゃらかんちゃら・・」

ん、まあ、どっちも好きだな。
最初は、猫のぬいぐるみを連れて、それをヨーロッパの街中でパシャパシャ写真撮っちゃいました、みたいなものかとも思ったが(これも好きではない。何のためにやってるのかがわからない)、何か違う気配を感じていた。
他にも買いたい本があったので、迷わずこの本も買う流れで、結果、よかった。
非常によかった。

旅のエッセーや、ガイドブックを見ていても、旅情をかきたてられることは皆無に等しく、ホントに旅に出てえって気持ちにはならない。
それは、何故か。
酷な旅ばっかしてきたからかもしれない。
まあ、楽しいんですよ、してるときは。
でも、思い返してみると、なんであんな旅してたんだろうって、まことだ。
ホントにそうとしか思えない。
若さ?衝動?不満?
なんなの一体、もうって感じである。

そんな気持ちがごぼごぼ湧き上がってるところに、この本の中の一文にこんなことが

「もしも今、
有り余る時間を使って何かを探す旅に出ることができるなら、
僕は重いリュックを背負ってインドに放浪に行ったりはしない。
空港でレンタカーを借りて、
世界中のホームセンターを巡る旅に出るよ。」

ええ、等しく。
ワタクシも、そんなで。

とにかく、ゆるい。
この本の魅力は、ゆるさだと思う。
旅の本にありがちな、生きるとは、なんてカビくちゃい哲学なんて全く出てこない。
ひたすら、愛猫と愛妻とともに、ゆるく旅するひとりの男性の感じたこと見たものが、そのまま書かれてて、それが実に自然。

ヨーロッパまで、猫を連れて旅に来た日本人を、もっと珍しがって!もっとほめて!
なんていってるんだけど、周りは案外冷めてて、普通。
ヨーロッパではペットとともにホテルに泊まったり乗り物に乗ったりすることは日常だそうで、猫を抱えてる日本人がいたところで、ふ~ん。

でも、飛行機も見知らぬ環境もOKな、彼らの愛猫ノロはスゴイ。
この本を読んだところで、じゃあ私もオレもって、こぞって自分の飼い猫を連れて旅に出る人が飛躍的に増えることはないと思う。
やはり、これは先に書いた「小説」ではないけれど、れっきとした彼らと彼らの猫の旅の物語で、私たちはそれを楽しく読む読者なんだ。

自分は、これを読んで久々に旅に出たくなった。
どんなビジュアルの美しいガイドブックを見てても、びくともしない自分の気持ちがころっととけた。

ノロのかわいさ。
時間のゆるやかさ。
レンタカーだからこそ見える、観光くさくない視点の低さ。

インドで放浪じゃない。
今の私も、それは卒業。
ヨーロッパにまた、行きたい。
かわいいお店で、きゃあきゃあしたい。(アホ)
ムーミン谷に行って、こらまた、きゃあきゃあしたい。
美味いもん、いっぱい食べて、ふ~んとかいってみたい。

そしてなにより、旅にはパートナーが必要なんです。

っていうか、今の私には、いないと旅は厳しい。
腰がいてえんだよ。
ヘルニアなんだよ。
荷物、ちょっと持ってもらいたいんだ。

かわりに土産は持つ。
まかせろ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/20

沖に向かって泳ぐ

さあ、ガクブチの作業の続きをと思っていたら、あれ?ボンドが固化してらあ。
おらおら、押してみたけど、だめだ。
滅多に使わない種類のボンドは、ちゃんと管理しないといかん。

そんなわけで、ブログに。
ブログに向かう理由はいつもこんなだ。

さて、吉祥寺に「のまど」という本屋さんがある。
自分の本を置いて頂くことがきっかけで、親しく、というか、こちらから図々しくオジャマしている本屋さんだ。(ホント、申し訳ないっス)
旅の本がメインではあるけれど、「旅」をキーワードにセレクトされた本のジャンルはひろく、店長さんの興味の幅、深さを感じさせる本屋である。

その、「のまど」が発行するメルマガには、店長さんのセレクトする古書やら新刊のコメントがあって、自分の興味を揺さぶるときがある。
そして、そのコメントを読んでは、ほ~っとなって思わず買ってしまう、いいお客でもある。

先日は、新井敏記氏の「池澤夏樹 沖に向かって泳ぐ」が紹介されていた。

ここからは、そんな店長さんのコメントを、そのまま引用させていただきます。


本書は、出版当時、雑誌「スイッチ」編集長だった著者が、1991年から1993年までに
雑誌「スイッチ」および「リテラリー・スイッチ」、「文学界」で作家池澤夏樹氏に行った
インタビューをもとに、池澤氏の創作活動の秘密について迫ったノンフィクションです。

池澤氏といえば、現在はフランスに移住して創作活動をしていますが、その前は沖縄に
住んでいましたし、一時期ギリシャにも住んでいたという、まさに「越境の作家」と呼ぶべき
存在ですが、このインタビューもヤップ島、沖縄の座間味島、東京で行われていて、こんなに
常に移動している作家も珍しいのではないでしょうか?しかし、新井氏もよくぞここまで
あの読書家で有名な池澤氏と対等に渡り合っているなあと感心してしまいます。その中で
印象的なのは、池澤氏が「ヘミングウェイは、勇気がなかったと思う。自分の体験やスタイル
から離れることなく、冒険をしなかった。いわば、岸に沿ってしか泳げなかったということかも
しれない」と、表現した部分です。人間、誰もがなかなか冒険したくてもできない中、「沖に
向かって泳ぐ」という行為は本当に勇気のいることです。ただ、常にチャレンジしていか
ないといけないというのは、作家という存在は因果な商売ですね。
作家になりたいと思っている人には、参考になると思います。


はい。
ちなみにワタクシ、新井敏記氏という方は知りません。
本屋に勤めながら、その興味の幅は、えれえ狭いな、と思っております。
池澤夏樹氏、この作家も、度々出てくる店長さんのコメントで知りました。
けっこう、頻繁に出てくるところをみると、きっと興味をもたれているんでしょうね。
ワタクシも遅まきながら、興味を持ちました。

確かに、岸に沿ってばっか泳いでる人がいかに多いか。
それは作家だけでなく、どんな生き方、職業についている人にもいえることです。
しかし、作家という職業を例にとってみれば、「岸に沿って泳ぐ」ということは、出版社からの依頼であったり、読者の要望であるような気もするのです。
書いても売れなければ食っていけないわけですから。
そんなでミステリーばっか書いてる作家さんもいますねえ。
悪いとは言いません。
でも、ミステリーばっかですなあって。
読者を喜ばせるということを考えれば、充分価値あることを成していると思いますが。

それに反し、「池澤夏樹」は沖へ向かっていると。
このことに関し、著者の新井氏も、また店長も共感をしているのです。
いや、共感ではないでしょう。
きっと、それ以上のものだと。
スゲエエエーーーって。

自分も、このコメントを読んで、ようやく池澤夏樹氏に興味をいだきました。
数日後には、彼の著書が2冊届きます。
それを読んで、いったい、自分は何を感じるんでしょう。
まったくみえない。
だから、楽しみ。

沖へ向かうといえば、映画『ガタカ』でも主人公は必死に沖へ向かって泳いでいることを思い出した。
人と違うこと、劣性をかかえていること、それを克服するために、彼は死に物狂いで泳いでいた。
そして、ともに泳いでいた優性である弟に勝ち、弟をかかえて岸に戻ってきたとき、彼は幼い頃からの夢である宇宙に向かっていった。

いい話である。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/12/31

住まい方は、生き方

book16自分はおそろしいほどに、自分の部屋が好きである。
今、住んでいる家は親の家で、こりゃまた自慢だが、とてもいい家に住まわせてもらっている。
木の家、ログハウスってやつですか。
都会の人が憧れる、そのものって感じの家で、通りすがりの人もよく見てる。

そんな自慢は、どうだっていいんです。
どんだけ、なに言ったトコでしょせん親の家なんですから。

いい家だろうが、なんだろうが、自分は昔から、とにかく自分の部屋が好きだった。
20代半ばまで、狭いボロい社宅を転々としながら生き続けた。
ホントに狭かった。
大学から、20代半ばまで自分にあてがわれたスペースは3畳ですからね。
ミニマムの極みですよ。
そこには、作業するための机があり、そこで物を作り、本がひしめき、CDがならべられ、そしてそこで寝る。
ちょっとでも物が狂えば、物が散乱すれば、自分の居場所はないっていう、そんなところで生きていた。

でも、この狭さの極致のような部屋でも自分はこの空間が大好きで、大学が終わると、すっ飛んで帰っていった。

「あっちゃん、好きね~。ホントに好きね、自分の部屋」

と、よく言われたもんだ。

「襖がらって開けたら、あっちゃん!納まってるがな!」

って感じやな。って笑われたこともある。
確かに納まってた。
ぎゅうって、入ってた。
狭いでちゅう。

そう、別にいい家のいい部屋に限ったことではないんですよ。
自分の居る空間、自分の生きる空間は、狭かろうがボロかろうが自ずとオレ仕様になるんでしょう。
旅先でもそうだった。
しばらく滞在する部屋は、いつの間にか「オレの部屋」になっていて周囲を驚かせた。
驚かせるのが目的ではない。
ただ、ふら~って来た同宿の人が首をかしげる。

「あれ?俺の部屋と同じだよね?なんだ、ここ、なんかオマエの部屋になってんぞ。なに、オマエ暮らしてんだよ」

期間は限られているとしても、空間も限られてるとしても、その与えられた中で最大限、自分にとっての快適を優先したい。
無意識にそう思っているんだろうな。

キチンと片付いてるわけじゃない。
毎日、掃除してるわけでもない。
物も狂ってはいないが、それなりに乱雑になっていたりはするが、見事にまとまっているのだ。

自分の居る空間に自分の知らないものは何ひとつない。
つまり、自分が必要と感じ、必要としてる物があるだけだから、たぶん、まとまっているんだと思う。
センスもクソもあったもんじゃない。
ただ、物が並んでるだけ。
インテリア雑誌なんて見たこともねえ。参考にしたこともねえ。
でも、落ち着いてる。

なんて前置きはさておき、って、オイ、これ前置きかよ。
なげぇー、前置きなげぇー。

先日、読み終えた本。
一気に読めばあっという間の本であったんだろうけど、作業の合間にちょこちょこ読んでたら思ったより時間がかかった。

著者の津田晴美さんは、ハードの住まい・インテリアを提案するでなく、あくまでもソフト重視の方なんだろうな。
ソフト、つまり、そこで住まう人そのものの「生きる器」としての住まいやインテリアを提案する方。

読んでいて、おお新発見!眼からウロコ!ってことはなく、今まで自分が感じていたことがそのまま文章になっていて、自分の住まい方の再確認をしたような気がした。

生きるには当然「物」が必要なわけだが、その「物」の選び方、必要性、意味を読者に投げかけてくる。
結局は、「自分には何が必要なのか」それを問う本だった。
もし、答えられないとしたら、自分の生活スタイルと必要な物がまだ確立していないんだろうな、と思う。

この本の中で、心にストンと落ち着いたのは、「リネン」だった。
今まで、リネン=布巾だと思っていた。
女性雑誌やかわいらしい雑貨の本なんぞに、よく、リネン!リネン!って騒がれてて、なんで布巾一枚に騒いどるんじゃ、アホじゃろかと思っていた。
そしたら、違うね。
リネンって、高級な麻素材のことをいっていたんだね。
アホなのは、自分やんか。

へぇ~と思ったものは、すぐ試してみたくなる。
本の中では、高級なリネンのシーツのことが書いてあった。
どんなもんなんだ。
さっそく近所の布屋で麻布を買ってシーツと枕カバーを作ってみた。

毎晩、「ん?ん?こういうものなのか?いや、なんかもうちょっと違うでしょう」
って感じながら寝る。
感じる前に、んごーんごーいってるんで、たぶんなんだっていいのかもしれない。
でも、このシーツと枕カバーが、いづれ、何かになって現れる日を楽しみにしているのだ。

触り心地はいいけど、ボア素材のシーツ、いたんだら捨ててしまう。
そのボア素材から何か作ろうと感じるほどの魅力は、くたびれたボア素材にはない。

しかし、知ってる人は知ってると思うし、気付いてる人もいるかも知らんが、麻布っていうのは使い込むほどに味の出る素材なのだ。
しっかりとした木綿もそう。
つまり、いま自分の寝てるシーツが、いつの日かガクブチのマットやガクブチの素材として使われるのだ。
楽しみである。

なんてことを考えながら、年賀状、間に合わんな。
こんなん、長々書いてる場合じゃないでしょう。
これから、仕事だよ。

今年も店を閉めます。
この店に来てからの恒例になっている。
一年の終わりをここで過ごすのは好きで、閑散とした店が、寂寥感ではなく何かひらかれたものをいつも感じさせてくれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/15

女優の朝

book14美しさってなんだろうって思うとき、たまにこの写真集をぱらぱらと眺めてみる。
ふ~んって感じになる。
それが心地好い。

人物の写真集は今まで買ったことがなく、興味もなかった。

一昨年の秋頃だろうか。
たまたま行った、書店でこの写真集を手に取った。
何気なく、ぱらぱら。
知ってる女優さんがたくさんいて、そのことが興味深かった。
でも、本は戻してしまった。

それから、しばらくして、今度は別の書店で、またこの写真集を手にしていた。
このときは、1ページ1ページ、じっくりみた。
コメントも読んでいた。
オイ、いつまで立ち読みしてんだよ。って、そのくらい。
実に真剣。
でも、やはり買わなかった。
いったい、どうしたいんだろう。

そして、また書店が変わり、他の売り場そっちのけで写真集売り場へ。
その書店は最上階が写真集売り場で面倒くさい。
なんて、そんなこと気にならないほど。

あった、見つけた。
あ、ビニール、まかれてる。
なんでだろ。
もう、ここでは中みられないんか。

そうか、みられないんか。

レジに並ぶ。
「すんません、ビニール外しちゃってください」

やっと、買った。
新宿では、とりあえず「ここ」と決めてある喫茶店があって、そこに寄って久しぶりに眺める写真集。
薄暗い店内で、ぼんやり眺めるモノクロの写真がやわらかくて、買ってよかったなって思った。

家に帰ってから、実に時間をかけて、丁寧に1枚1枚の写真を眺めた。
短いコメントも気に入っていた。

原題は『Women Before 10 a.m』
ホントにそのまんまで、午前10時になる前に女優さんやモデルさんのもとを訪れて、そのまんまの姿を写真におさめるというもので、いつも私たちが見ている綺麗に形作られた彼女たちとは違う「素」の姿が在るという写真集。

綺麗にお化粧して衣装を身にまとって挑むようにカメラに向かう彼女たちしかみたことがなくて、その姿も美しいんだけど、やっぱ「素」の方が美しいと感じる。
ぼんやりしてる。
無防備で力が抜けている。

そのまんまでいいんだなって感じる。
美しい人っていうのは、そのまんまで美しいんだなって。
無駄に着飾る必要もなくて、その芯の通った姿があるから美しいんだろうな。

表紙の、ふにゃ~としたミラ・ジョヴォヴィッチ、たまらなく可愛い。
気に入った写真はたくさんあるけど、どれが一番好きかっていわれると、裏表紙にもなっているアンジェリーナ・ジョリー。

book15

凛としてる。
カッコいい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/12/10

星の王子さま

maeのライブが始まるまでの時間、『星の王子さま』を読んでいた。
煙草の煙りの立ち込める薄暗いライブ・ハウスで本なんぞ読んでるのは、見渡しても自分ひとりだった。

『星の王子さま』はあまりに有名すぎて、今まで読んでみようと思ったこともなく、なんで今さら手に取ったのかもよくわからない。

旅の本を出版したとき、自分の働いている本屋にも置かせてもらった。
これ見よがしの、でっかい目立つPOPのおかげで、それなりにお客さんの目にもとまるらしく予想以上に売れた。
自分がたまたまレジに立っているときに、自分の本を持ってきて下さることが一番嬉しくて、仕事そっちのけで喋ってたもんだ。

そんな、あるとき。
ひとりの男性が何冊かの本と一緒に、自分の本を買って下さった。
ありがとうございました、も言う間もなく、その人は一目散に去っていってしまった。
おい、まてー、こらー。って。
(お客さんに向かって、こらーはないでしょ)
喋るどころじゃねえ。

それから、しばらくして、また来て下さった。
また、何冊かの本を買って、ほいよってレジを通した本をカウンターに置いたら、1冊の本が出てきた。
あれま?
なんじゃろ、これは。
一緒にレジ通さなあかんでしょが、ばらばらに出しちゃいやーよ。
って、眺めてたら

「これ、どうぞ。差し上げます。」

って、言って、また一目散に去っていった。
おい、まてー。今度こそ、ホントにまてー。
だったけど、行ってしまった。

本と一緒に手紙も入っていて、そこには自分の本を読んだ感想が書いてあった。

サンテグジュペリの『星の王子さま』を思わせる。
と書いてあった、ような気がする。

その手紙は何度も読み返すものではないとそのときも思ったし、今もそう思ってるので、その読んだときの一度きりしか読んでいない。

すぐ、『星の王子さま』を読んでみようという気は起こらなかった。
ただ、なんとなく、わかるのは、無重力感だった。
サンテグジュペリっていう人は、遠くを見てる人のような気がした。
彼が飛行士だからか?

以前、このブログで飛行機・上空のことを書いた。
空の上で、自分は無力だ。
それが、このうえなく幸せに感じる、みたいなことを。

空から眺める世界。
切り離されている錯覚。
自分と地上の世界が分断されている気がするのだ。
空の上で、自分は何も出来ない。
ただ、景色を眺めてるだけだ。
でも、それだけしか出来ないことが幸せなんだろうな。

上空では「何かしてる」っていう感覚が全くない。
寝てても起きてるようで、起きてても寝てるような、浮遊。
地上にいるときは、「何かしてる」と思い込んでるだけなのかもしれない。
しかし、実際、何かしてるのだ。
仕事もそう。
そこで、くだらないことに腹立てたり、無駄な疲労があったり。
でも、それが日常で、逃げようとも思わない。

だけど、空にポーンと上がった瞬間、そういったもの全てが、下に置いていかれてる。
眼を凝らして、よく下を見てみる。
そうだ、確かに下にはちゃんとそういうのがあるんだ。
車が走ってる。
大きなビルが見える。
人が暮らしてる。

逆に、空に、人は暮らしてるのか?
空に人間臭さって、まるでない。
それが、星の王子さまのような気がする。

そんな人間臭さから一歩離れた文章でつづられていくのが、サンテグジュペリの文章であるような気がしたし、自分の書いた旅の文章もそうだったのかもしれない。
簡単なひとつの言葉の裏に、いくつもの見えない言葉を託しているような気がする彼の文章。
自分の書く言葉にも、いつも、いくつもの意味を持たせようとしてるかもしれない。

だから、曖昧と、ぼんやりと、輪郭がハッキリしないと、とらえられるのかもしれない。
でも、そんなのが自分の書くもので、いいたいことって、なかなか言葉にならない。

でも、曖昧模糊としたなかに、見えないものの向こうに、ホントの何かって在るんだろうなって思う。
星の王子さまの輪郭はかすみがかったように、とてもぼんやりとしていた。
そのなかに、いくつもの真実を内包してたような気がする。

自分は、いくつ見つけられたんだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/11/10

黙されたことば

book13ぢろばたには、たくさんの詩がある。
どれも、とても馴染んでいて、いままで気にもとめなかった。

「ガクブチ展」最終日、ガクブチを片付けて、ほうとしてたときに、ふと目に留まった。
無造作に詰まれた本の山の中から、1冊、どうしても引きずり出してみたい衝動に駆られたものがあった。

クレーだ。
長田弘?
誰それ、知らない。
ぱらぱらページを繰ってみる。
そうか、詩なんだよな。

ふうん。

ふうんじゃねえよ。
なんだ、これ。

ページの言葉を追う目が止まらない。
なんだ、これ。

詩なのか。
詩って、こういうものなのか。

ぢろばたの店主には申し訳ないが、今まで詩には興味がもてなかった。
わからない。
それが単純な理由だ。

長田氏の詩はわかる、わからないじゃない。
自分が、口にする言葉、誰かに向かって投げかける受け止めてもらいたい言葉が、慎ましく、しなやかにならんでいた。
とても自然だった。

いま、その詩集が手元にある。
困ったことに、ちっとも先に進まない。
まだ、三篇だ。

よんでも、また戻ってきてしまう。
その繰り返し。
先に進むわけがねえ。

いま、この詩のまわりをぐるぐる回ってる。
とても、気持ちが好い。


「まだ失われていないもの」

何かがちがってくる。
風があつまってくる。
陽差しがあつまってきて、
やわらかな影が、そこにあつまる。

見えないものがあつまってくる。
ふと、騒がしさが遠のいて、
それから、音もなく
明るい塵があつまってくる。

すべてが、そこにあつまってくる。
花のまわりにあつまってくる。
ふしぎだ、花は。
すべてを、花のまわりにあつめる。

匂いのように、時間が
蜜のように、沈黙が
あつまってくる。
ことばをもたない真実がある。

空の色、季節の息があつまってくる。
花がそこにある。それだけで
ちがってくる。ひとは

もっと率直に生きていいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/06/13

江戸川乱歩

久々に江戸川乱歩を読んだ。
彼の本はあちこちの出版社から様々なかたちで「短編集」だ「怪奇集」だとかで出てるもんで、はて、どれを読んだか読んでないのか・・・。
たまに、「あ、これ読んだやん!」なものにあたることもあって、全く能率の悪い読み方をしてる。

今回は、光文社から出てるものを手に取った。
表紙の紙質が手になじむのと、ごちゃごちゃと込んだ具合の装丁が気に入った。

表題は『化人幻戯』。
ワケがわからない。
そのわからなさも、乱歩らしくて実にドキドキしてきてイイ感じ。

この表題以外にも、怪人二十面相の少年ものが二篇収録されている。
が、怪人二十面相はねえ、どうもお子様向きのもので、読んでて思わず「ぷっ」てなってしまう。
笑いどころでないのは、わかってるんだけどねえ。
仮に、これを小学生の時分に読んでいて、また今読み返すとなれば思いは別なんだろうけど。
やっぱり、どちらかといえば、おどろおどろしい大人向けの乱歩が私は好きである。

さて、本題の『化人幻戯』。
ばっちりネタバレ、犯人のこと書いてしまうので、これから「これ」を読もうと思ってる方はひかえて下さい。

乱歩の作品を相当読んでるわけではないので絶対とはいえないけれど、彼の作には魅惑的な女性がよく出てくる。
で、だいたい、彼女が事件に絡んでいるか、犯人なのである。
今回の作にも、やはり美しい人が出てくる。

姿かたちは細かく描写されていないのだが、「美少年のようなおもむき」のあるお姫さま、由美子さん。
もう出てきたとたん、「ああ、この人でしょう、この人が絡んじゃうんでしょう」っていうのはバレバレ。
でも、じゃあ、なんで?というのがわからない。
読んでも読んでも、動機はない。
遺産相続とか嫉妬とか、精神錯乱とか(自分は、これかと思っていたのだが)いう確たる動機がない。

しかし、由美子さんの

「わたしは、変わっているんです」

その一言で充分だった。

当時の批評では、この作はあまりかんばしくなく、乱歩自身もあまりよい出来だとはしていないけれど、私は好きだった。
確かに描写の弱い点も多く、由美子と多いに絡むはずの二青年は、なんだか薄っぺらいし、由美子の主人はただ居るというだけの存在でしかないような気もする。
でも、由美子の周辺の男性のことを細かく書けば、それだけ「由美子が怪しい」ということが色濃くなってしまうから、まあ仕方ないのかもしれない。

由美子は可愛い、愛しいと思うものが極地にまで達してしまうと、殺してしまうのだ。
そこに罪悪感は全くない。
ただ、愛のイキ値なのである。
愛しているがゆえに殺すというのではなく、愛の行為の延長というか最後にぷちっと殺してしまうのだ。

だから、読後に恐ろしいとか怨念めいてるとか女は怖いとか、そんなありきたりな思いは残らない。

ケロッとした由美子が、実に可愛いのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/05/10

ピヨピヨ スーパーマーケット

book10久しぶりに本のお話し。
ここんとこ、ずっとガクブチ関連だったからなあ。
そればかりだと、生活も頭ん中もガクブチでいっぱいになってしまって、濃度こすぎ。
ちょいと、逃げましょう。

この絵本は、もうだいぶ前に買ったもの。
おなじみです。ワタクシの本の見つけ方。
そう、商品整理をしながら、「なんでしょね、これは」と手に取った1冊であります。

はじめて「笑える絵本」というものに出会い、心地よい衝撃でありました。
絵本というと、かわいらしい・きれい・なごむ・優しい気持ちになる・幼心にかえる・・・・云々ありますが、そういう類いで引き寄せられることは自分はあまりありません。
何を基準にして選んでるんでしょうねえ。

さて、この「ピヨピヨ スーパーマーケット」、何がいいかって、子供たちが「ふてぶてしい」んですよ。
子供を見て無条件に「かわいい~」って言える人が、ワタクシは疑問で仕方ありません。
子供って、そんなにかわいいかなあ?
無垢っていうけど、無邪気っていうけど、ホンマかいな。
やつら、かなり計算高いぜ。
それを知ってんのかなあ。

逆に、ワタクシはそんな計算高い子供を眺めているのが面白いんですよ。
かわいいんではなく、幼い頭で必死に考え、考えた挙句がそれかよ、みたいな「とにかく必死」なところが面白くて傍観してますねえ。
そんな光景、本屋ではしょっちゅうですからねえ。
頑張る、頑張りどころがズレてるところがいいんですよ。

この「ピヨピヨ~」の主人公は、5羽のヒヨコたちです。
かあちゃんと一緒にスーパーへ買い物に来ました。
スーパーはいいですねえ、大好きなもんいっぱいですからねえ。
今日は何買うかな~。
もう買う気満々ですよ、菓子を。
それも、大量の菓子を。
かあちゃんの見てない間に、積む積む、ひたすら菓子をカゴに積み上げる子供たち。
その、菓子に向かってまい進する姿、一生懸命さ、段取りの良さ、これが面白いんですよ。

周りの子供たちの描写も非常に笑えます。
そう、かつてそうであった自分たちの姿があるんですよ。
必死っていうのは、いいですねえ。
傍から見てると、とても笑えます。
当人は見られてる、なんてことに気付かないほど必死だからこそ面白いんですよ。

自分の好きな作家にエドワード・ゴーリーおぢさんがいますが、まあ彼の描くものほどブラックではありませんが、クスリとくるツボは似てると思うんですよ、この絵本。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/03/27

Fire King

book9
ブランドには、とんと興味がない。
みんな好きなんでしょうかねえ、これ見よがしに持ってますねえ。
シャネルだあ?グッチだあ?
くそくらえですよ。
(言葉遣い悪くていけませんね、失礼いたしました)

そんな自分、どうしたことかいきなり食器に興味を持ったんですよ。
ブランド、くそっ!なんていってるのに、ちゃんとブランドのある、おまけにアンティークの食器を!

まず、この本で知ったんです。
「なんやこれ」
ふーん、食器の本か。別に興味ないねん。
最初は、こんな程度でした。

しばらくたって商品整理しながら、またぱらぱら見てみる。
やっぱ、食器やん。

でも、何かひっかかる。
じゃ、何が?
わからん!
でも、なんか呼んでる!

わかった!色だ!この翡翠色だ!(表紙のマグカップの色です)
ちくしょーめ!色にやられたぜ!!
虜だぜ!

一度燃え上がると行動に移すのは非常にはやく、早速先日「Fire King」の売ってるお店へ。
下北の『ジェダイ・マジック・ギャラリー』ってトコに行って参りました。
あるある、いっぱいある!

値段はモノによりけりです。
食器でアンティークというと大抵の人はヨーロッパのものを想像されるかと思うんですが、これはアメリカのガラス食器なんです。
1940年代から1970年代の間に作られ、一般家庭、そしてレストラン(ダイナー)等で愛用された丈夫でキッチュな食器なのです。
もう、50年以上もたってるものもあるのに、丈夫なんですねえ。
いまだに使えますからねえ。
でも、それだけ年代がたってるアンティークなので、やっぱお値段もそれなりなんですよ。

ちなみにワタクシが惚れに惚れこんで買った「エクストラヘビー」のマグ。
12000円なり。
マグ・カップに1万以上かけるんか!?アホちゃうか?
ええ、そうですね。アホかもしれませんね。
ブランドなんて、くそっていってる自分自身、くそですよ。

やられました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/01/13

友人の本が出ます

book7
自分のことのように嬉しい。
旅中にお会いしたチャリダーさんの本、第2弾です。
まだ店頭には並んでいないので読んではおりませんが、きっと前作同様「力強い」本なのではないでしょうか。

たぶん、自分の本屋には入荷しないんだろうなあ。
この際だから前作と一緒に発注かけて勝手にコーナー作っちゃおうかなあ。
店長滅多に店来ないから、ばれないだろ。

彼の素晴らしき本にまぎれて、というか便乗して自分の駄本も並べようかな。
手書きのPOPを貼っておくと、目立つのかそれなりにお客さん見てくれるのよね。
うちの本屋は、ホントに旅ものエッセイの類に弱くて、全然入荷もしないし、コーナーすらろくにないし、当然だが売れない。
そんな状況下でも、自分の本はそうやってぼちぼち売ったし。(相変わらず、せこいな。でも、買ってくれたお客様ありがとうね)
やっぱり、コーナー作るかな。作りたいな。
彼の本は是非、売りたい。

前作の紹介もいたします。
book8
当たり前すぎて、だからこそ見失っていたことを、この本を読んであらためて実感した。
それは「前に進む」ということ。
周りに流されて勝手に進んでるという受動的なものでなく、自らの選択、自らの力で進んでいくというもの。
つらくても、きつくても、そして悲しくても、自分で掴みとっていく拓かれた先には美しい実が。

彼のような旅人に会いたくて、自分は旅してるのかもしれないなあ。
ちから、ありまっせ。

最後になりましたが、石田ゆうすけ氏のサイトは、こちら

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/01/09

和のこころ

book6
また、商品整理をしていたら掘り出し物を見つけてしまいました。
着物の着付けの本のとなりで、ぽつーんと一冊だけ「ここでいいんでしょうか?」みたいな顔して並んでいました。
美しい表紙に惹かれて、ぱらぱら中をながめると(いつもいうようだけど、ちゃんと仕事してください)、ぽち袋の図案集でした。
ぽち袋-お年玉袋といったほうが、今の人にはピンとくるんでしょうかねえ。

昔の人はお年玉に限らず、ちょっとしたおひねりや借りてた小銭をひょいと返すときなんかに、季節や渡す相手に合わせた絵柄のぽち袋を粋に使っていたようですね。

粋です。
そんな生き方、生活に粋な部分が今の私たちにどこまであるんだろう。
粋は「ちょっとした心遣い」から生まれるような気がします。
その「ちょっと」が、今の人には「無」か「有」のどっちかに針がふれてしまって見あたらないような気さえします。

でも、まあ、そんな難しいはなしは抜きにしても、楽しい本です。
和の色、淡い色あわせをながめているだけで豊かな気持ちになります。
絵柄のもつ意味、例えば「なんでうさぎの絵柄は昔からよく使われるのか」というような、身近でありながら知らないことがさらりと説明されていて、見て読んで、楽しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/11

インド夜想曲

先日といっても、かなり前のことになります。
wild thingさんのところで紹介されていた「インド夜想曲」という本が、とても気になりました。
なんでだか、よくわかりません。
インドのことを書いた本だからでしょうか。
旅の本だからでしょうか。
どちらでもあり、どちらでもないような気がします。

たしかにインドも旅も好きではあるけれど、ただ、それだけの理由で、あちこちの本屋をはしごするだろうか。
結局、その本は見つからず、古本としてネットで手に入れたわけだけど、はて、なぜそこまでして一冊の本を手に入れようとしたんだろう。
そこまでする理由が、わからない。

しかし、なんだか理由もよくわからないのに、気になる。
たぶん、そのことが、自分を大きく動かしていたような気がします。

そして、また、この本も、そんな感触のある本なのです。

本には入り口があります。
言い方をかえると、「読み始め」がありますね。
どこで誰が何を思い、やろうとしてるのか。

この本の主人公はインドで失踪した友人を探しに、インドを訪れます。これが入り口です。
私たち読み手は、この主人公とともにインドの混沌とした地に降り立ち、主人公の目線でインドを感じていきます。
「友人」は主人公にとって、とても大切な人であるという印象を抱かせます。
しかし、ページが進めば進むほど、友人とは一体どんな人なのか、どんどん、おぼろげになっていきます。
なんで、主人公は友人を探しているんだろう、見つけてどうするんだろう。

そんな疑問がつのるにつれ、地についていた足が、どんどん地を離れていくのを感じるのです。

「ここはインドですから。あなたはインドを知っていますか?」
あるインド人が主人公に訊ねます。

そうか、ここはインドなんだ。

そういえば、インドは不思議な香りがした。夜の闇が怖かった。明け方のあの鈴の音はどこから聞こえてくるんだろう。
本を読み進めながら、自分の旅が違和感なくオーヴァーラップしてくる。

この時点で本は半ばを過ぎていました。

地に足のついた地点からストーリーは始まったはずなのに、この頃になると、その入り口がずいぶん下のほうにある感じがしました。
本の半ば以降、主人公の出会う人たちは現実と空想を往き来できる人たちのように思えてくると同時に、主人公もまた、それに近い人間なのではないかと思える記述がでてきます。
それらが美しく重なり合っていくことで、見えないものが見えてくる。
与えられた入り口は、どんどん小さく、どんどん遠のいていきます。


ひとつのあるストーリー、その入り口はひとつかもしれないけれど、同じ高さ(位置)で終わる絶対性、あるいは出口がひとつでなければならない絶対性はないのです。

起承転結とでもいいましょうか、入り口から出口まで安心して進める読み物の欲しい人には、不向きかもしれない「インド夜想曲」。

私は、久しぶりによい旅ができました。
インドの甘い空気、夜の深い闇が、つつむのです。

wild thingさん、すてきな本をどうもありがとう。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2004/11/20

うろんな客

book5.jpg
ある晩、家のベルが鳴るんでなんだろうと思い、外に出てみる。
風の強い不吉な晩である。
誰もいないじゃないかと一同、家に戻ると壷の上に何かいる。
「うろんな客」である。
その日から、このうろんな客との共同生活が何故か始まる。
姿はアリクイのようで、スニーカーを穿いた姿はどこか憎めない。
しかし、意味不明な行動に一同翻弄されっぱなし。

最後のオチで、クスリと笑みが出る。

やっぱり、憎めない。
でも、このヒトは・・・いったい、何してるんだよ。

柴田元幸氏の軽妙な短歌調の訳が、またピタリとはまり,何度読み返してもクスリとしてしまう。

お下品な漫画や、わかりやすいお笑いに辟易してる方に、オススメしたいブラックな絵本です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/15

エーリカ

book3.jpg

これも、クリスマスの絵本ですが、絵本というよりはむしろ大人のためのショートストーリーで、テーマはクリスマスですが「辛い」です。
最初から最後まで、あったかい気持ちで読みたい人にはオススメ出来ない本ですが、現実をちゃんと見て生きてる人には共感する点の多い本だと思います。

作者はエルケ・ハイデンライヒ、絵は先日も出てまいりましたミヒャエル・ゾーヴァです。
タイトルの「エーリカ」とは、大きなピンクの、おめめのキラキラしたブタのぬいぐるみの名前です。
その、エーリカを抱えた主人公は、ある場へ向かおうとしてるのですが、そこへ行く理由、そこで会う人のことをエーリカを腕に抱きながら考えます。
何のために行くんだろう、何のために会うんだろう。
そして「大切なもの」は何かを感じて、このお話しは幕を閉じます。

ただ、なんとなく流されて生きちゃってるのが、この世の大多数の人かもしれないけど、その流れに逆らってもいいじゃないか、立ち止まってもいいじゃないか。
そう、思える「エーリカ」です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/11/13

クリスマスに、どうぞ

book1.jpg

いつも本屋のぼやきばかりではいけませんね。
本日は、季節にちなんだものを選んでみました。
もう少しで、クリスマスです。
本屋にとっては地獄の期間です。
包んで包んで、包みまくりやー。
えー、こんな本までプレゼントかえ?センスねえなあーなんて思いながらも、包む包む。

あ、いかん。また、ぼやきになってるやん。

さて、こちら『雪の日のパーティー』、イギリスのジル・バークレムさんによる絵本です。
主人公は、野ネズミでして、のばらの村というところに住んでいます。
ある朝、眼を覚ますと村はすっぽり雪におおわれています。
ご先祖のしきたりで、アイスホールで雪の舞踏会がひらかれることになったのですが・・・

お話しもさることながら、その緻密な絵が素晴らしい。
大きな暖炉のある台所のごちゃごちゃした感じや、子供部屋のキルトのベッドカバーのかわいらしさとか、もう、隅々まで描き込まれているんです。
絵を見ているだけでも楽しめる、まさに絵本です。

さむーい冬に、あったかい部屋でモコモコの毛糸の靴下なんぞはいて、ぬくぬくしながら眺めていたくなる、「冬の絵本」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/10

ミヒャエル・ゾーヴァ

ミヒャエル・ゾーヴァって、その名を聞いただけでわかる人は少ないかもしれないけど、映画「アメリ」でアメリの部屋に飾られていた動物の絵。といったら、わかる人は多いのかもしれない。
最近、急にそんなゾーヴァさんの絵が気になり、何冊か絵本を買いました。
だいぶ、前から自分の作業机の前にはゾーヴァのポスト・カードは貼ってあったんです。
毎日、何気なく眺めていたくせに、実は誰の描いた絵か意識することなく、ただ眺めていたんです。
つまり、日常にうまい具合にとけこんでいたようです。

彼の描く絵は、馴染みある風景の中に、馴染みある者たちが、馴染みのない姿で自然と居るんです。
例えば、ある部屋の大きな鏡の前に、野うさぎが居ます。
その、野うさぎはヒョウ柄の大きなだぶだぶパンツを穿いた自分の姿を鏡に映して眺めています。
「ん~、ちょっと大きいわねぇ」そんな、きょとんとした顔をしてるんです。

彼の絵には「日常」と「非日常」の隙間に居る者や時間や空間が描かれているような気がします。
だから、ただ単純に不思議だなあとか、可愛いなあっていうファンタジックな思いは遠いところへ行ってしまうんです。

飛躍しすぎたファンタジーは逆に窮屈に感じる、そんな人にはピッタリくる絵ですね。
ワタクシには、ピッタリです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/01

入院読書

去年の夏、突然入院しました。
昼間は元気だということで外出許可が出まして、早速向かった先は自分の勤める本屋。
なんせ、ヒマなんですよ、病院が。
だから、なんかイイ本ないかなーってことで探しに行ったんです。

セレクトした3冊
・オリビア おしゃまなブタの女の子の絵本。シンプルでいいんです。スッキリしてます。
・太平洋戦争(上)児島 襄・著/中公新書
・ヒンドゥー教-インドの聖と俗 森本達雄・著/中公新書

ちょっと時間がありますっていうんじゃなく、ただ途方もなく時間がある。
そんなときじゃなきゃ読めないだろうという本を無意識のうちに選んでいたようです。
特に、「太平洋戦争」。(ちなみに下巻はまだ読んでません)
知らないことが多すぎです。教科書でクローズアップされるのは「真珠湾攻撃」ばかり。あとは、最後の原爆投下。
この本では東南アジア侵攻の過酷な状況が、物語風ではなく膨大なデータをもとに克明に描かれています。
でも、読んでて楽しいものじゃあないですね。
だけど、知らないままでいるのはコワイからなあって、いろんなことに対して思うんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)